どうも、あおりんご(@aoringo2016)です。
昭和金融恐慌のシリーズをお伝えしております。
今回は「昭和金融恐慌に突入していくスキーム」をお伝えしたいと思います。
こういった危機に直面したとき、人は否が応でも生き残るためにあらゆる手段を使おうとする様子が伺えました。
【連載】
もくじ
(1923年〜1927年)昭和金融恐慌、突入へのスキーム
まず、図1.が昭和金融恐慌へ突入していくスキームとなります。
(1923年〜)震災手形割引損失補償令の発表
関東大震災がおこったことにより、その後の救済措置として日本銀行は「震災手形割引損失補償令」を発表しました。
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そして、これが昭和金融恐慌のガンへとつながっていきました。
図2のとおり、そもそも震災手形割引損失補償令は震災で倒産寸前の企業や銀行に対する緊急措置のために発表されました。
震災がおこった直後に発表し、期限は2年後の1925年9月末となりました。
最初は返済が順調に進んでいったようでした。
しかしながら、期限を迎えた2年後の1925年9月になっても完済できなかったようなので、日本銀行はそこからさらに1年間延長することを決定しました。
(1926年12月末)震災手形、完済できておらず
1年延長されながらも、1926年12月末になっても震災手形の完済ができずに日本銀行は困難を極めていました。
では、なぜ期限までに完済できていなかったのでしょうか。
図3. のとおり、原因は以下の2つになります。
- 震災打撃が小さい企業の手形
- 財界に脈がある企業の決済困難な悪質な手形
最初に震災手形の返済が順調に進んでいたのは 1. にありますが、返済が進まなかった原因は 2. にありました。
【日本の大暴落】昭和金融恐慌をわかりやすく解説 ①発端で第一次世界大戦終了時にはじまった好景気の終わりを告げた1920年の暴落があったことはお伝えしましたが、この暴落によって経営が行き詰まりはじめ返済不可能となっていた手形がこの震災手形に当てられていました。
当たり前ではありますが、企業はどんな手段を使ってでも生き残りたかったんですね。
(1927年3月〜)銀行の取付騒ぎスタート
返済不可能となっていた震災手形があることが広まっていき、世の中には人々の不安が立ち込めていたようです。
そんな中、若槻内閣で大蔵省の大臣だった片岡直温大臣が、まだ休業に至っていない渡辺銀行を「休業した」と誤って報じてしまい、取付騒ぎがスタートしていきました。
取付騒ぎは段階的に起こりました(図4.)。
震災手形の完済困難により世の中に不安が立ち込めている中、片岡蔵相の失言が導火線となり、まずは二流・三流の銀行が取付騒ぎにあいました。
ここでは局所的な信用パニックであったため、ひどい金融恐慌にはつがりませんでした。
つづいて、当時の一流銀行として台湾の中央銀行を担っていた台湾銀行が1927年4月18日に休業しました。
銀行の相次ぐ休業により、人々もこの危機からなんとしてでも生き残るために銀行の預金を引っ張り出しました。
この結果、全国的な信用パニックになり、昭和金融恐慌がはじまっていきました。
まとめ
今回は「昭和金融恐慌に突入していくスキーム」をお伝えしました。
好景気の暴落や震災により打撃を受けていた企業や銀行がなんとしてでも生き残ろうとするだけでなく、人も銀行に預けている預金を引っ張り出して生き残ろうとする様子が伺えました。
このブログはカフェで書いていましたが、過去と現在と照らし合わせてみると、人が不安にかられていない様子から、金融危機はまだ遠いのかもしれません。
もちろん、将来はわかりませんが。
あおりんご
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